ホームに設置してある鏡は、自殺防止のためなのだという。
 ホームの鏡を見るたび、私はその話を思い出す。皮肉に思わず笑い、安いものだと胸中で呟く。たかが鏡一枚で人の命を救えるものならば、それほど効率的な話は無い。
 だから私はこの鏡の効能を信じていない。結局、鏡は鏡だ。単なる道具に過度の期待をかけるのは良くない。
   それにしても。私は辺りを見回してみた。宵の口はもうとうに過ぎた。そんな時間になっても――いや、時間が過ぎていくにつれ、この駅の人ごみは厄介になっていく。ついさっき到着して行った電車が吐き出した人ごみはその前より明らかに増えていた。
 面白いのは、その誰もが一様に疲れきった顔をしていることだ。まるで全員がそんな趣味の悪い冗談のような面をつけているかのように。その表情は満員電車に疲れたからのものだろう――けれど私は、それは生きることに対する疲れと同義だと考える。満員電車を使わずに生きることなど不可能に近いからだ。
 その時、次の下り電車の通過を告げるアナウンスが流れた。私はホームの端でそれを待ち受けながら、益体の無い考え事をした。
 ホームへ飛び込んでくる電車――アレは実は、自力で動いていないんじゃないか。
 例えばちょうど今のような時、私はいつもそんなことを錯想する。プァァン、と気が抜けるような警笛の音と共に、私の目の前を急行の電車が走り抜ける、その直前。体はそこにあるのに意識だけがふーっと脳から引きずり出されて、自然と体もついていきそうになる。そんな不快な引力みたいなものがあった。それはどこかで感じた何かに似ていた。
 そのよく分からない力の余韻を残したまま、電車は過ぎていった。だんだんと遠ざかるその電車を見送りながら私はぼんやり夢想を続けた。
 では、どうやって電車は動くのか。
 それは多分、何かに引きずられているから。ブラックホールみたいな何かに。
 それが持つ奇妙な引力は電車を常に先行していて、馬の鼻先にぶら下げられたニンジンよろしく電車を走らせている。引っ張りながら、引きずりながら。だから時折、今私が感じたような感覚をばら撒いていく。
(……そうか)
 そこまで考えて、思い当たることがあった。
 何に似ているかというと、この不快感はあの感覚にそっくりだ。高いビルの屋上から地上を見下ろしたときに覚える、喩えようの無いアレに。そんなつもりは無いのに、ここから落ちたらどうなるんだろうなんて考えてしまう。
 そしてその感覚は、時に人を本当に引きずりこむ。
 そういう意味でやはり駅のホームは最悪の場所だった。ここは死ぬための動機と手段が無造作にありふれている。
 どうにかしなければならないだろうとは思う――けれどどうすれば良いのか分からない。ただ一つ分かるのは、鏡なんかじゃ自殺は防ぎきれないということだけだ。
 その時、次の電車が来ることをアナウンスが伝えた。私はやはりホームの端で電車を待った。私の仕事はただ見送ることなのかもしれないとふと思った。
 そして電車が入ってくる。また引っ張られる。いけない、と私は心の中で身構えた。
 その瞬間、ほんの数メートル手前で、まるで糸の切れた照る照る坊主が地に落ちるように、サラリーマン風の男が電車の前方へ吸い込まれていくのを見た。


 まただ。
 と、私は力無く呟いた。
 けれど動じている人間はおらず、例えば無意味に群がる野次馬とか、無駄に響く怒鳴り声だとか、慣れた様子でそれに対応する駅員とかばかりだった。運転手もただ舌打ちをするだけなんだろうか。私は、ただ違和感ばかりを覚えていた。
 人が死んだのに、それか。
 できるならそう叫びだしたかった。けれど私の中のひどく計算高いものがその考えを押しとどめていた。何も言わなければ、私を含めた全員が明日にはきっとわすれてしまうのだから。沈黙で人の死を忘れられるなら、そんなバカみたいに簡単な話は無いのだから。
 だから私は、黙りこくった。



(ひかれる ・ 了)

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